お隣さんの卵
やろう、やろう、と思いながら手つかずにいた野山の手入れを少しづつ始めました。
一日竹を刈りこんで、ようやくお隣さんとの行き来が可能になりました。
ほとんど、お隣さんが刈って下さったのですが、、
ありがとうございます。
丘を越えて姿を現すのは綺麗に手入れされた畑と果樹、その周りを気持ちよさそうに走り回る鶏達。
卵から孵って間もない雛と、もうすぐ孵ろうとする卵達。
まさに楽園。
小さな畑、その周りを気持ちよさそうに走り回る鶏。
そんな景色を僕らも作ろうとしている。
産みたての卵を、朝起きたら目の前の畑に採りに行って、
そして僕はオムレツ皿を作るのだ。
オムレツから染み出た出汁をバケットですくって食べる。
これがめちゃくちゃ旨い!
イメージは膨らんでいく。。
泥灰釉
器の中の釉薬は淡路島の泥と木灰を調合しています。
一言で泥といっても、
四方山に囲まれ中央に作られた溜池の底に100年近い歳月を経て溜まり発酵したヘドロのような泥。
昔の人が考えて作った溜池が、結果として四方の山から流れ込む泥が交ざり発酵する場所を作ってくれた。
その出来事が面白いと思ったのでこの泥を使わせていただいています。
僕の中には原料一つ一つに一方的な物語があって、それを繋ぎ合わせて作っていたりします。
その物語が深まれば深まるほどに「よしっ!」という訳のわからない手ごたえを感じたりして、
僕の器を買って下さるお客様にはあまり関係のない拘りかもしれないと思う時期もあったのですが、
中には面白がって下さる方もいたりして、
最近ではどちらでも良い、どちらも好い話だなと大きく受け止めれるようになってきました。
この感覚は本当に有り難い。
大切なのは自分の興味が何処に在るか、ごくごく細やかな揺れに添う事。
それすら通り越してピンときてパンとなる事。
やはり楽しみは尽きそうにありませんね。
お皿。
昨夜、窯の火を消して冷めるのを待っているところです。
今回の窯は大小さまざまなサイズのお皿が中心となります。
制作中、最初はトンボ(寸法を測る道具)を使い、いつものように同じ形、同じサイズの器を、ある程度まとまった数で轆轤挽きしていました。
続けていくうちに、少々サイズと形にばらつきがでたしても轆轤の回転に合わせて、土の動きたい方に進ませてみようという気になりトンボを使わずに自由に挽いてみました。
見た目に大きな違いが生じたわけではないのですが、すごく自然体で作る事ができました。
釉薬も毎回少しづつ調合を変え、どうにか好いモノに近づかないかと試行錯誤しています。
今回は前回使っていた、緑釉、藁灰釉、鉄釉の調合を変えてみました。
さて、どうなるでしょうか?
これが僕の中でとても大きな楽しみとなっています。
土や灰、原料を大量に確保することで同じ雰囲気の色を出すことはある程度までは可能なのですが、その時々の気持ちにできる限り添うことで自分の中で生まれた旬を味わいたいという思いがあります。
その時を過ぎてしまえば、たとえ自分の中から湧き出た感覚でも、もう一度巡り合うのはとても困難になります。
できる時、できない時もありますが、どちらも好ということで、
毎朝、食べるパンを乗せる皿を毎日変えたくて、気づけば皿をたくさん作っていました。
そんな動機が案外上手くいくと思っています。
何がきっかけになるかは本当に分かりません。
パンとコーヒーに自分の興味が移り始めた辺りから、カフェの器の注文が続いています。
ありがとうございます。
楽しくパンとコーヒーの話ができる人が増えて幸せです。
本心に添うと自然とそうなっていくものですね。
baguette
ブログ中の「いっぷく」というカテゴリーを「パンとコヒー」に変更しました。
進みたい方向だけはいつもピンときているのですが、とにかく言葉にすること、人に伝える事が難しい、
そんな中でも何も言わなくてもピンッと来てくれる人との出会い、存在は本当に有り難い。
樂久登窯のHPもそんな人が作り一緒に歩幅を合わせて歩んで下さる。
だから僕は自由度を上げ心が欲する方向に舵を切ることができる。
本当に有り難い限りです。
「パンとコーヒー」
妻は毎日のようにパンを焼いている。
なんで?って聞いてもどうも上手く説明ができない様子。
あっ、これだ!と気づいた。
質問に対して理由を応えれるようでは話にならない。
言葉にならないぐらいでないとね、
コーヒーもおそらくそんな感じ。
僕の陶芸もそうでありたい。
とはいえ、伝える努力はこれからもし続けていくつもりです。
今のところ、
いつか語らない人になれますように。